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アムゼルくんの世界 Die Welt des Amselchens 

タグ:意識と本質 ( 24 ) タグの人気記事

待ち伏せする風景

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さみしい風景に

待ち伏せにあった

と思うことがままある

それは意識と無意識のはざまに

何者かがふともぐりこんでくる

感覚だ。


つまりボーッとしているときに

風景が視界に飛び込んできて

そしてわたしのどこかを蹴りあげる。


それはおそらく

わたしというものの本質に

直接関係のあるものが

わたしに直接語りかけているのだ。

しかしそれはなぜ

さみしい感情をもたらすのだろうか・・・・




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by amselchen | 2009-05-02 07:52 | Vario-Elmarit 14-50

写るものと写すもの


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日本語には自動詞と他動詞という区別がある。

他動詞はかならずその動作を受ける、またはその動作が及ばされる客体、英語風にいえば

目的語をともなう。また動作の主体がつよく意識されてもいるであろう。

写る、といえば自動詞であり、

写す、といえば他動詞である。


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では写真は写るのか、

あるいは写すのか?

写すつもりでいて写るのであろうか?

わたしはまだそこがよくわからない。



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by amselchen | 2009-03-19 06:10 | Vario-Elmarit 14-50

スーパーレンズが引き寄せる光景

前回、無意識の力が働いたような撮影だったと述べた。

それはほとんど一時間に満たないごく短い時間であった。

いつもの見慣れた街角だったが、

ML35でなにげなく撮影した光景が、

PCの画面に開いてみると、まるでちがう自分が撮った画のようであった。


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レンズの力が、<わたし>の表層意識の下に隠れたものを誘い出してくれたのかも知れなかった。

今度もまたこのような写真がとれるのだろうか?

また週末がくる、試してみよう。
by amselchen | 2009-01-24 02:50 | Yashica ML 35/2.8

Yashica・ML35が呼寄せる風景

というわけで、<わたし>の世界を<わたし>が定義すると、不思議なことが起きる。

こんな風景がほしい、と思ったとおりの風景が<わたし>に現前するのだ。

Contaxレンズ導入以来、その傾向が強い。

またこのヤシカ・ML35はとくにその力が強いようである。


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この街角でこの視点ではこうあらねばならぬ、という<わたし>の定義そのままに光と影がその位置を決める。

その意味ではこのレンズは<わたし>をまったく「裏切らない」。

これはいったいどういうことなのだろうか?
by amselchen | 2009-01-22 02:38 | Yashica ML 35/2.8

うつろうだけの表の世界

目で見る世界は畢竟現象世界であるから、そこには本質が露呈しているわけではない。

プラトンによればすべての事物には「イデア」という本質がある。

あれやこれやの花々の本質である、「花というイデア」があるのだという。

ひとつのひとつの現象を帰納してゆくと本質に行き着くのではなく、本質の演繹が現象世界ということか。


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その考えはどうも理解しにくい。

わたしがこうあれ、と念じたものが現象として現れ出でる、と考えたほうがすんなりと納得できる。

<わたし>にとっての世界は<わたし>が定義しているのだ。

Meine Welt bestimme ich.

これで世界はこともなし・・・・・か。
by amselchen | 2009-01-21 00:09 | Yashica ML 35/2.8

裏切られる視線と客観世界

こんな風に見ていたのではなかった、と撮影した画を見て感じることがままある。

それを視線を裏切るカメラの眼、と名づけておいた。

そしてどうしてそんなことが生起するのかと考察を進めようとして頓挫している。

しかし、今はこう考えている。

<わたし>の視線は、わたし自身の心象風景をもとめる、これは以前にも触れておいたかもしれない。

ゆえに、<わたし>の視線は精確な現象世界を見てはいないのだ。

いわば、<わたし>がそうあってほしい世界を、現象世界の表面から切り取っているだけなのだ。


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だから、<わたし>にとって世界とは<わたし>が作り上げるものである、とはこの意味でまったく正しいと確信する。

ただし問題は残る。

なぜカメラはたびたび<わたし>の視線、すなわち<わたし>の世界を裏切るのだろうか?

カメラ(およびレンズ)が客観世界の側にあるからだろうか?

どうもそれだけとは考えにくい。

おなじ撮影機材を用いて同じシーンを撮っても撮影者によって異なる世界が表出するからだ。

カメラ(およびレンズ)は、撮影する<わたし>と密接な関係があり、そしてしかも時に「裏切る」のである。

そうまるで気ままな異性の友のように。
by amselchen | 2009-01-20 05:41 | Yashica ML 35/2.8

視線をみちびく内的イマージュ

分節化された具体的なイマージュに満ちあふれた現象世界においても

ふと視線を引きつけるものはふつう具体的な「モノ」であるでしょう。

たとえば、あそこにロビンがいる、と気づく

そして、ああいつものあの個体だ、と視認する。

これが普通に起こる事態です。


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しかし時には、そうではなく、よくあることですが、

ただなんとなく向けた視線の向こうにこちらを見つめる誰かがいた、

これなどはどうでしょう?

それは相手の視線に感応した、ともいえますし、

また、無意識が捉えたあるイマージュが働いているのかもしれません。

それはある言葉では表現できないなにものかが、

わたしの視線を導いているのではないでしょうか?

また「それは」形象化できないあるものなのですから、感じるしかないのです。


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写真撮影に入れ込むようになってからの体験ですが、

まったくどうにもならない、たいした画が撮れない日が(まま)あります。

また逆に、まったく意図せずに次々と気に入る画が撮れることもあります。

視線を向ける作用に違いはないのにいったいどうしてなのでしょうか?

表層意識とは別の何かが働いているのです。



さらに、イザ版でものべましたが、人から聞いたある未見の野鳥が撮りたいなあ、と思っていたら、ひょいと件の鳥が目の前に飛び込んできた、なんてこともあります。

その時は確かに、未知の野鳥をイマージュしていました(未知ですから具体的な形象化はできません)。

その時の無意識の力が何かに作用したのでしょう。

それは、視線のなかに「モノ」がまさに文字通り「飛び込んできた」のでした。
by amselchen | 2009-01-17 01:32 | Distagon 2.8/28 T*

イマージュの湧起る場所

存在のゼロポイントは「無」であり「空」であるのでしょうが、それは「虚無」や「空っぽ」なのではなく、すべての存在の元というか、あらゆる存在が満ち溢れていて形のないもので、それを仮に「無」あるいは「空」と名づけたのが、東洋的叡智だったのでしょう。

その「無」であり「空」を分節化して、ある形をあたえるものを「阿頼耶識」となづけるのです。

「阿頼耶識」により分節化された「存在」は、まるで沸騰した水の中の気泡のように表彰意識にむかって湧き上がっていきます。

その湧き上がるものが「イマージュ」なのです。


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その「イマージュ」は表層意識にまでたっして形象化するものもあるし、下層意識にとどまったまま、表象意識にはそれとはっきりと明瞭に確認できないまま、無意識が捉えるものもあります。

例を挙げれば、大日如来を表象形象化された「イマージュ」、何者とはしれず畏れ多きものを漠然と感じる、世界をつかさどるものの「存在」を感じる、それを無意識が捉える「イマージュ」とします。

そしてそれは実に文化的な制約をうけるのだそうです。

われわれが大日如来と形象化する「もの」を、ある文化は「God」として形象化するのです。
by amselchen | 2009-01-16 04:26 | Flektogon 2.4/35

レンズが思索する


このブログを始めたころは、写真を撮るとはどういう行為か、どんな意識の働きがあるのか、というようなことをめぐってあれこれ彷徨していたのだが、いつのまにか沙汰やみになってしまった。

なにごとも中途半端、わたしの悪癖である。

しかしほんとうに必要なことであれば再開して継続すればいい、そうでなければそのまま消滅してしまえばいい、そうたかをくくっている。

こんなつまらない独言を本気で読む方がおられるとは思いもしないが、誰かが一緒に考えてくれ、そして貴重なアドヴァイスをくださるかもしれないことを信じて、また続けてみようか。

一時帰国から帰って生活のペースがかなり乱れ、また撮影についてもただ漫然、漠然とシャッターを押している自分に気づいた。

だからまあ、気づくだけまし、まだ見込みがあるのかも知れぬ、と自分を慰める。

夏のあのころの気分に帰って再開するために、夏の湖の写真を掲載してみよう。


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by amselchen | 2008-11-15 07:12 | Tessar 2.8/50

世界のフシギ


といっても、狭い「世界」の中でしか世界を見ないものの言い草では話にならない。しかし世界のすべてを見通すことはフツーの人間にはできない。

悟りを得たもの、あるいはなから世界のヒミツにアクセスできるものなら別ではあろう。がしかし、そういうものになったところで世界を把握しつくすことは不可能だろうと思う。

世界はどうも意識、あるいは想念がつくりだす現象であるということらしいから、どうしたところで結局はいたちごっこで追いつけるはずはない。

それならば、せいぜいポジテイヴなイメージで世界をつくり上げてしまおうではないか。


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黒い葉の植物があったっていいじゃないか。よせくる黄昏のなかでかすかに微笑まんとするような花がそれにくっついていたってこれまた善し、と受け止めてしまおうではないか。

世界がそのとき少しわかったような気がする。
by amselchen | 2008-09-29 05:39 | Tessar 2.8/50