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アムゼルくんの世界 Die Welt des Amselchens 

<   2008年 07月 ( 17 )   > この月の画像一覧

無限の実をふくむ「無」


テツガク関係の書物を読みはじめたそのころ、世の中でいちばん人気のあった哲学者(というよりむしろ作家というべきでしょうか)といえば、J.P.サルトルでした。彼の『存在と無』を苦労して、しかし一部はじつによく腑に落ちる思いで読んだことがありました。

自己を不断に無化して、あらたな自己へと変容してゆく、そのような存在を「対自存在」ということ、そしてそれを「無」となづけたこと、このことは幼いわたしの頭へ鋭いしかも深い刻印を残しました。

それは、そのころ熱中していた『老子』の思想にも通ずるものだったからです。

『老子』によれば、「無」とは何もない、ことではなく、逆にすべてがそこに含まれる存在のいわば大本、というよりはそれこそが「存在」であるようなものであり、それに名前を与えることができないゆえに「無」ととりあえず名づけたものなのです。

それを井筒俊彦は「存在のゼロ・ポイント」と名づけました。

「無」にせよ、「存在のゼロ・ポイント」にせよ、それはあくまで仮であって、元来ことばでは名づけようもない、何者かでそれは「ある」のです。

その「無」が、不断に分節化して世界に、われわれの意識に感知できる形で現れ出る、それが現象世界ということです。


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なにがその「無」を分節化するか、といえば「阿頼耶識」である、と『大乗起信論』は述べているそうです。

その分節化された現象のひとつひとつは「無」の一部ではなく、じつは「無」そのものである、というのもブッディスム、タオイスムに共通の理解です。

全体は部分、部分は全体。

こういう理解は、われわれにはなじみやすいものですが、ヨーロッパ的「知性」はどうもその原理を受け入れがたいように見受けます。そんななかで、サルトルの「無」という概念はとびぬけて「東洋」的なものだなあ、と感心したのでした。
by amselchen | 2008-07-31 02:17 | ZD40-150

RSSフィードにおける一方的な広告インサートについて


休暇中からかえって見てびっくりしたのですが、RSSフィードにわたしのしらない広告がインサートされているようです。

イザのRSSリーダーをみて知りました。

そこで<Exciteブログ>をあちこち調べてみた結果、いかのことが判明しました。


<http://staff.exblog.jp/7217342/ よりの引用開始>

RSSフィード配信方法の変更について

いつもエキサイトブログをご利用頂き、まことにありがとうございます。

エキサイトブログのRSSフィード配信を
株式会社RSS広告社に委託することになりましたことをお知らせいたします。

【配信時期】7月上旬から順次開始予定

  【対象】アドバンスユーザーと公式ブログを除く全てのブログ

【変更事項】
・RSSの配信元が、「××××.exblog.jp(ご自分のブログURL)」から
「http://rss.exblog.jp」に切り替わります。
※ユーザーの皆様の作業は発生しません。

・フィード内にRSS広告社から広告が配信されることがあります。
※ブログの記事ページ自体には掲載されません。
※mixi、GreeなどのSNSには広告は配信しません。

・公開記事の投稿時にRSS広告社にPINGを送信する為、PING送信画面が表示されます。
※「更新PING送信/検索公開設定」を“しない”に設定している場合もPING送信画面が表示されます。


サーバーの負荷軽減とサーバー増強費用を補う為にも、
皆様のご理解とご協力をお願いいたします。

今後とも、エキサイトブログを何卒よろしくお願いいたします。


<追記>2008/6/17
RSS広告社へのPING送信にともなうPING送信画面の表示につきましては、
PING送信の事前テストが必要な為、6/23(月)より開始いたします。


<引用終了>



つまり無料利用者のブログのRSSフィードには、一方的にRSS広告が挿入される、ということらしいですね。そして、無料利用者であるかぎりは、この広告はキャンセルできないようです。しかも、外部業者に委託した結果のそのせいなのか、今日(29日の)新記事『他者の「まなざし」』のRSS配信がありません。

こまったものです。


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今後の対策としての選択肢は、

1.有料サーヴィスに移行する。
2.他のブログ・サーヴィスに移転する。

のどちらかしかないようです。

エキサイトブログの一方的な、しかも通知もなしの処置には、いささか思うところもありますが、わたしにとっては比較的使用しやすいブログなので、とりあえずこのまま放置しようと思います。

当ブログのRSSを登録されてくださっている読者の方には、みぐるしいこともあるかもしれませんが、どうかご容赦願います。


いずれ、どちらかの選択をすることになるでしょう。

さて、どっちかな・・・?!?むふふ
by amselchen | 2008-07-29 08:01 | Tessar 2.8/50

他者の「まなざし」


「わたし」つまり意識が世界にむかって開かれ、そして瞬時ごとに「まなざし」をなげかける。そしてカメラがあれば「まなざし」のおもむくままシャッターを切る。それで世界をきりとったことになるのでしょうか?

当初は、そんなつもりでいたのは確かです。そして「わたし」の世界を定義するのだ、と勢いたってもいたのでした。

しかし、いつか他者らしい「まなざし」を撮った写真の中に発見して、じゃっかん考えが変容しました。

誰か人を対象に、つまりポートレートをとるときは、もちろんモデルの視線は直接感じることでしょう。しかしそれはあくまでカメラに対する「睨み返し」であって、「まなざし」とは異なると思います。

それに、わたしが感じる他者の「まなざし」とはカメラによるものであることは、もうすでに述べてみました。

カメラという道具は、もちろん「わたし」そのものではないのですから、「わたし」の「まなざし」とぴったり一致しなくても仕方がありません。

さらには、世界をみつめる、ファインダーをのぞいて構図を決める、露出を調整する、シャッターをきる、これら一連の作業のなかでどこに他者の「まなざし」が入り込むのでしょうか?

また、その他者とはいったい誰なのでしょうか?

それは、レンズだと思います。レンズこそが「まなざし」をもつにふさわしい道具ではないでしょうか?レンズが捉えた光と影、それこそがまさに写真なのですから。



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by amselchen | 2008-07-29 04:03 | ZD40-150

沈黙のエクリチュール


本来は、「わたし」にだけ意味のあったものが、テクストとして読まれることにより、「わたし」の意図したものとはちがった意味を引き出される、とはジャック・デリダのテクスト論でした。

それを言葉だけではなく、写真にもひきのばしてみてもまちがいはないと思います。

しかし、言葉のように意識の働きが明確ではない写真の場合は、より無意識が表出されているだろう、とは容易に考えられることです。

そして、そこには「わたし」の表層意識や意識の志向性、これからはメルロ・ポンティやサルトルにならってそれを「まなざし」と呼ぶことにしましょう、だけではなく、それを相対化あるいは客観化する他者の「まなざし」が感じられる、ということを以前に述べておきました。

またそれを、道具としての「わたし」の「まなざし」への裏切り、と表現しておきました。

その仕組みの考察はすこしづつ進めるとして、この「裏切り」があることが、写真を撮ることのひとつの愉しみであることを確認しておきましょう。

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いったい、「わたし」は何を見つめていたのだろうか、見ようとしていたものはなんだったのか?そんな内省を促す効用が、撮られた画にはあるようです。

そしてそれが重なってくると、ある種のエクリチュールともいうべきカメラの言葉が聞こえて、というより、より正しくは、見えて来るようではありませんか。
by amselchen | 2008-07-28 06:30 | Tessar 2.8/50

意識(わたし)とは何だろう?


意識すなわち自我、<わたし>ですが、表層意識のことでしょう。

深層意識の探求は、フロイドによって開拓され、ユングにうけつがれてより説得力のある仮説となりました。

それは検証不能な仮説にとどまっています。

しかし、それが「存在」するであろうことは、確かであろうと思います。それは、いわゆる「科学」では明らかにできないことではあるのでしょうが、量子力学がその解明に大きく寄与しているのだろうと思います。

門外漢のわたしは、そのことを詳述する知識がありません。しかし生かじりのモノでも仕方なく開陳することもあるかもしれません。

そして、さらに「東洋」思想がそのことと関連してくるのですが、そのことに触れるとまずはながーくなるので、この三者(ユング、量子力学、東洋思想)についてはあとまわし、としておきます。


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しかし意識の志向性、とはいかにも不思議なものではないでしょうか?

なんでこんなものに注意が行くのだろう、と思わさられることがままあります。それが自己の意識ゆえよけい気にかかるわけですよね。

たとえば、写真のようななにげない階段、そのたたずまいがふと目に留まり撮影しました。なんということもない光景ですが、こうしてあとで眺めていると、自己意識だけがめだってしかたありません。

つまり、それは「わたし」にとってだけ意味があるものなのかもしれません。
by amselchen | 2008-07-27 05:48 | Tessar 2.8/50

テクストとしての写真


昨日のエントリーにエリリンさんから、、朝日か夕陽か判然としない、というコメントをいただきました。

それには、写真は書かれたものと同じで、見る方が好きに読み取っていい、朝日に見えるなら朝日なのです、と答えました。

ポスト構造主義者たちのテクスト論の引用です。これは、撮影者の意識の志向性をカメラが裏切る、ということとも関連する、撮影という行為と撮られた写真の表出する画の意味についての考察にとっては、基本的な理解のひとつであろう、と考えています。

ううむ、ことがだんだん大げさになってゆくなあ・・・

井筒俊彦の「東洋」思想の共時的提出、についての考察がよちよち歩きで一向に前進しないのに、ポスト・モダンまででてきてしまうとは、いったいどう収拾をつけようか、頭をかかえてしまいそうです。

まあ、ブログということで、その日に思いついた断片を記すだけ、という軽いノリでつづけましょう。そうしていつか全体で漠然としたものながら、おおよその考えが提示できれば、まあ御の字ということにしておきましょう。






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by amselchen | 2008-07-25 07:34 | Tessar 2.8/50

意味と表出


カメラのなかになにが潜んでいるかは、あまりにブンガク的設問だったかもしれません。

しかし、ブンガク的にしか表出できない事柄もあるわけですから、時にはしかたありません。

言葉を道具として、明瞭にあくまで明瞭に、と追い求めるのが欧州語の特徴かもしれません。

しかし日本語やシナ語は、「含み」とか「裏の意味」とかが重要な要素を占め、ときには言葉にして表出つされたものとは正反対の意思が伝達されようとしていることもままあることです。

そういう文脈で、「カメラの中」うんぬんを受け止めてほしいのです。

また、撮影した写真も「ブンガク」的なこともありますし、わたしは実を言えばそれを夢想し模索しつづけているのです。とはいえ、まだはじまったばかりですが。

拙い撮影技術でどこまで表現できるかしりませんが、日々精進をかさねて行くばかりです。

それがわたしの実存的体験を形成することなのですから。



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by amselchen | 2008-07-24 07:02 | Tessar 2.8/50

下手な考え、ひとやすみして


ちょっとここでひといきいれましょう。

休暇いらいの、たぶん人によっては迷惑な、そして幼稚な、はたまたまったくの余計な撮影をめぐる意識の考察のようなものが続いて、うんざりされている方も多いことでしょう。

それでも毎日30人前後の方々がおとずれてくださっています。ありがとうございます。

あなた方は、わたしの宝です。

昨日は、イザに「宣伝広報」をエントリーしたためか、倍を超えるアクセスをしていただきました。

Danke!

帰国以来、休暇からもちこした、あっちへいってああでもない、こっちきてこうでもない、という思索のようなものが、環境が日常化したためか、なんだか少し後ろへ遠ざかってゆくようです。

それで一息、ということにしましょう。


実は、E-520を購入する前は、あれやこれやと機種選択の悩みが多く、買ってしまって精神的に(大げさか?)大きな一段落をとげたのもつかのま、今度はレンズの購買意欲が高まってしまって、すこしもてあまし気味です。

まあ、なんでも入門したてというのは、ついつい淫してしまいがちなんですわね。

と、いうわけで、休暇前に購入した、

Carl Zeiss Tessar 2.8/50 Jena DDR

につづいて、はやくも第二段、

Carl Zeiss MC Sonnar 3.5/135 Jena DDR

も買っちまいました。どちらもM42マウントです。

それで、今日配達されたばかりのSonnarでとったものの一つが、これです。


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もう、なんだか古いCarl Zeiss沼へはまり込んでゆきそうな気配が濃厚です、ううむ・・・・・・・・
by amselchen | 2008-07-23 07:44 | Sonnar 3.5/135

カメラの中に潜むもの


自分が見るつもりで見られている、ということは他者のなかで生きるわれわれには普通のできごとといってよいでしょう。

しかし、カメラが他者になりうるのでしょうか?

答えはたぶん、然り、であろうと思います。

この現象<世界>においては、すべての存在が等価だからです。生物と無生物とを問わず、です。


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しかし、写真撮影の場合はこうもいえるかもしれません。

撮影者の意識の志向性がカメラには判断できず、光学的にあたえられた情報をレンズがそのままつかまえ、そしてセンサー(昔ならフィルム)に映し出す、と。

それゆえ、撮影者の思いもかけなかった事物が捉えられてしまう、と。

しかし、物理・光学的には、(たぶん)それが正確なのでしょうが、いかにも退屈な「事実」ではないでしょうか?

なにか特別な存在がレンズとカメラに潜んでいて、そして撮影者にときに従いときに逆らって仕事をしている、と考えるほうが、すくなくとも愉しいではありませんか?

では、その「特別な存在」とはいったいなんでしょうか?
by amselchen | 2008-07-22 04:27 | Tokina SD 28-70

意識の志向性と他者の目


いわば、わたしが見る、という意識の志向性が、カメラという他者に見られている、とでもいえばいいのでしょうか。

そして意識していなかった、無意識のようなものをかいま見させられるのです。

意識せずにそれと見ていたものが、カメラによって思いもかけずに示されます。だから、それは世界を切り取っているのではなく、自己とカメラをふくめた世界から見つめ返されているような感じを受けるのです。

いったい<世界>とはなんなのでしょう。

<真如>あるいは<無>と、とりあえず名づけられた「名」をもつ存在のゼロ・ポイントが分節化されて現象として表出する、それがわたしたちの<世界>であるそうな。

だからそれは虚妄なのだということです。妄想といってもよいのかもしれません。

それは言葉をいくら費やしても到達できないものなので、だからゼロ・ポイントというのです。

しかし、しかし・・・

われわれが触れることのできる、この現象<世界>は、なんと懐かしいそして親密なもので満たされていることでしょう。


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その感覚さえ虚妄であるといわれれば、何も言葉はありません。

その言葉が無化したところから、ゼロ・ポイントへのアクセスへの遠い道のりが始まるのでしょうか?

とりあえずは、光と風と水のよびかけにこたえてカメラのシャッターを切り続けるしかないようです。
by amselchen | 2008-07-21 06:57 | ZD40-150