雪の降る寒さにも負けず
Flektogon 2.4/35は、もっぱらK100Dに装着している。MF合焦のストレスが少ないからだ。
コンタックスはあいにくペンタックスとFlange backがおなじなので装着は不可である。
実はM42も同じ45.5mmのFlange backなのだが、アダプターがすっぽりKマウントに入り込んでペンタックスでは使用ができることはご承知のとおり。
このFlektogon 2.4/35、発色が比較的濃厚で好きだ。
ピントリングも固めで(個体差かもしれないが)しっかり合焦点が決まってくれる。
定評のあるペンタックスのファインダー性能の良さにも大いに助けられる。
週末は、雪が降るほど冷え込んだが、このレンズが使いたくて防寒完備で外へ出た。
路傍の石の脇にこんなものを見つけた。
小さな花が、蔦にからめとられそうになりながら、それをいやがって身をよじり、石に寄添うように雪から避けているようにも見える。
なんという可憐さであろうか。
こんな光景にも、やはり何かの意味を読み取ろうとしている自分がいる。
その花はわたしに向けて何かを表徴しようとしているのはまちがいがない。
がしかし、それはわたしがそういう志向性の視線でその花を見ているからだ。
意味とは、そういう風に、向こうからやってくるように見えて、実は「わたし」(自己意識)から出発して現象世界にリフレックスして自己へと帰ってくるのだろう。
つまり自己意識はそのようにして世界の中でのスタンスを確認しているのだと思われる。それが<意味>というものの実態であろうか。
暗い深海をゆくUボートが、ソナーで障害物や敵の位置を確認し、そして自己の航路を変更して行く、そのようなイメージであろうか。ううむ、ちょっとそれとも違っている。
しかしメタファーはある具体的なイメージに捉われすぎるので、やや危険かもしれない。
ただ誤解を恐れずに云えば、写真撮影と意識の志向性が開示する現象世界の表出にはかなり深い関係がありそうだ、ということなのだ。
つまり撮影対象物をさがし特定する撮影者の行為と、撮影結果についてのことなのであるが。
撮影することによって世界が現前する、と言い換えたほうがわかりやすいだろうか?
by amselchen
| 2008-11-25 00:09
| Flektogon 2.4/35