沈黙のエクリチュール
本来は、「わたし」にだけ意味のあったものが、テクストとして読まれることにより、「わたし」の意図したものとはちがった意味を引き出される、とはジャック・デリダのテクスト論でした。
それを言葉だけではなく、写真にもひきのばしてみてもまちがいはないと思います。
しかし、言葉のように意識の働きが明確ではない写真の場合は、より無意識が表出されているだろう、とは容易に考えられることです。
そして、そこには「わたし」の表層意識や意識の志向性、これからはメルロ・ポンティやサルトルにならってそれを「まなざし」と呼ぶことにしましょう、だけではなく、それを相対化あるいは客観化する他者の「まなざし」が感じられる、ということを以前に述べておきました。
またそれを、道具としての「わたし」の「まなざし」への裏切り、と表現しておきました。
その仕組みの考察はすこしづつ進めるとして、この「裏切り」があることが、写真を撮ることのひとつの愉しみであることを確認しておきましょう。
いったい、「わたし」は何を見つめていたのだろうか、見ようとしていたものはなんだったのか?そんな内省を促す効用が、撮られた画にはあるようです。
そしてそれが重なってくると、ある種のエクリチュールともいうべきカメラの言葉が聞こえて、というより、より正しくは、見えて来るようではありませんか。
by amselchen
| 2008-07-28 06:30
| Tessar 2.8/50