イマージュの湧起る場所
存在のゼロポイントは「無」であり「空」であるのでしょうが、それは「虚無」や「空っぽ」なのではなく、すべての存在の元というか、あらゆる存在が満ち溢れていて形のないもので、それを仮に「無」あるいは「空」と名づけたのが、東洋的叡智だったのでしょう。
その「無」であり「空」を分節化して、ある形をあたえるものを「阿頼耶識」となづけるのです。
「阿頼耶識」により分節化された「存在」は、まるで沸騰した水の中の気泡のように表彰意識にむかって湧き上がっていきます。
その湧き上がるものが「イマージュ」なのです。
その「イマージュ」は表層意識にまでたっして形象化するものもあるし、下層意識にとどまったまま、表象意識にはそれとはっきりと明瞭に確認できないまま、無意識が捉えるものもあります。
例を挙げれば、大日如来を表象形象化された「イマージュ」、何者とはしれず畏れ多きものを漠然と感じる、世界をつかさどるものの「存在」を感じる、それを無意識が捉える「イマージュ」とします。
そしてそれは実に文化的な制約をうけるのだそうです。
われわれが大日如来と形象化する「もの」を、ある文化は「God」として形象化するのです。
その「無」であり「空」を分節化して、ある形をあたえるものを「阿頼耶識」となづけるのです。
「阿頼耶識」により分節化された「存在」は、まるで沸騰した水の中の気泡のように表彰意識にむかって湧き上がっていきます。
その湧き上がるものが「イマージュ」なのです。
その「イマージュ」は表層意識にまでたっして形象化するものもあるし、下層意識にとどまったまま、表象意識にはそれとはっきりと明瞭に確認できないまま、無意識が捉えるものもあります。
例を挙げれば、大日如来を表象形象化された「イマージュ」、何者とはしれず畏れ多きものを漠然と感じる、世界をつかさどるものの「存在」を感じる、それを無意識が捉える「イマージュ」とします。
そしてそれは実に文化的な制約をうけるのだそうです。
われわれが大日如来と形象化する「もの」を、ある文化は「God」として形象化するのです。
by amselchen
| 2009-01-16 04:26
| Flektogon 2.4/35