「わたし」にとっての世界が写真を決める
「わたし」の視線こそが写真の本質だと思います。
わたしごときがそう主張したところでたいした影響はないでしょうが、とりあえずそう提起しておきましょう。
だから機材はなんでもいいのです。まあどうせ「ドシロート」ですから。ただあまりに劣った性能では困りますが。
「わたし」すなわち自我ということですが、撮影者それぞれの自我が出てくる画を決定するのです。
ですからよく言われるような写真の客観性というのは嘘でしょう。
つまりロボットのようなもの、あるいは監視カメラのような機械自体が撮影したもの以外の、誰か人がいて撮影した写真にはかならずその人の主観が画に反映しているはずです。
またそうでなければわれわれが個人的に撮影を愉しむことになんの意味があるでしょう。
出てくる画に自己意識の表出ばかり見るのも、それはそれでつらい時もありますが、基本的にはまあ愉しい作業ではあります。
こうしてデジタル画像をPCにアップロードしてでてくる画を見るたびに、わたしにとって世界とは何か、ということを見続けることになります。
さてしかしその行き先はいったいどこにあるのでしょうか?
わたしごときがそう主張したところでたいした影響はないでしょうが、とりあえずそう提起しておきましょう。
だから機材はなんでもいいのです。まあどうせ「ドシロート」ですから。ただあまりに劣った性能では困りますが。
「わたし」すなわち自我ということですが、撮影者それぞれの自我が出てくる画を決定するのです。
ですからよく言われるような写真の客観性というのは嘘でしょう。
つまりロボットのようなもの、あるいは監視カメラのような機械自体が撮影したもの以外の、誰か人がいて撮影した写真にはかならずその人の主観が画に反映しているはずです。
またそうでなければわれわれが個人的に撮影を愉しむことになんの意味があるでしょう。
出てくる画に自己意識の表出ばかり見るのも、それはそれでつらい時もありますが、基本的にはまあ愉しい作業ではあります。
こうしてデジタル画像をPCにアップロードしてでてくる画を見るたびに、わたしにとって世界とは何か、ということを見続けることになります。
さてしかしその行き先はいったいどこにあるのでしょうか?
by amselchen
| 2008-12-14 03:12
| Planar 1.4/50 T*