アムゼルくんの世界 Die Welt des Amselchens 

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澄んだ夏の夕空


いつのころからか

忘れていた大切なこと

こうべをたれて思い出す

恥ずかしき少きころのあれやこれ

誰にわびをすることもなく

記憶のかなたに消し去っていたはずの

奥歯をかみしめて呑みこんだ

忘れたのではなく忘れようとした

あれとこれ

深くよどんだ水の底から

浮かび上がる泡

見つめることも堪えず

知らぬふりもかなわず

どうしようもなく知らざるを得ぬ

少きころの振るまいの

おろかさ

誰にいい訳のしようもない

とりかえしのつかぬ

あやまちと悔恨

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それをまた知らないことのように

忘れ去ることもかなわず

ただまた水の底に沈んでゆくのを

じっと待つ

夏のさわやかな夕

斜めに飛び去ってゆく光を

ながめていた、そのとき。
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by amselchen | 2008-11-29 04:42 | ZD1442

光へのオマージュ


東京近辺の冬は、冷たい空っ風が吹くものの、陽の照る日が多く、部屋の中の窓際で猫と一緒にごろんと日向ぼっこなどしたことが無性に懐かしい。

そのありがたさがしみじみわかったのは、ドイツへ来てから三年もたったころだろうか。

当初は寒さに気をつけるようにといわれて、意識がそっちのほうへばかり向いていたからだ。

しかしドイツの冬の寒さはそれほどでもない。

問題は日照時間なのだ。

日の出は遅く日の暮れは早い。

そして日中、陽の射すことはまれである。

どんよりと低く重く垂れ込めた黒い雲が、まるで空にふたをしたような、

まるで壷のなかに押し込められたような息苦しさを感じる日がつづくのだ。

これが、どうしようもなく人の気分に影響する。

だから人は、冬にはたいがい眉間にしわを寄せている。

頭痛もする。

低気圧だからだ。

そんなとき、どうするか?

ひとそれぞれ対策はあろう。

地中海地方やカナリア諸島、あるいはカリブ諸島などへ逃げ出すもの、

スキーへでかけ気晴らしするもの、

映画や音楽界へ頻繁に出かけるもよし、

とにかく気候のことを頭から追い払う苦心をする。


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わたしは、イタリアの夏を想う。

いつもならナポリだ。

カプリ、ソレント、イスキアと輝く夏の海岸を想う。


今年は南チロルの写真を眺める。

まぶしくもまろやかな光、

暖かくやさしい風にそよぐ高原の野草、

その息吹、

わずかひとときの夏の日々の刻印、

それだけで、

ながい暗い冬に対抗できそうだ。


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by amselchen | 2008-11-28 01:53 | ZD40-150

光と風の中へ

あいもかわらずの鬱陶しい日がつづく。

もちろん撮影する機会もない。

仕方がないので夏の高原へとまた帰る。


南チロルのマイルドな風と、強くはあるがあまりそれを肌には感じない陽射。

高原にはむせかえる野草の息吹と羽音も響けといそがしく飛びまわる虫たちが、

短い夏をそれと知ってかどうかは知らないが、精一杯生きているように見えた。

それは実はわたしの意識する世界ではあったろうが・・・・


そして農家の家畜たちのようすがまざまざとよみがえる・・・


といっても写真からだが(苦笑)


このものたちの体温まで思い出される。


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鶏だって抱くと暖かいのだ、ご存知であろうか?

このものたちも、与えられた生を、甘んじてだろうが、それでも同じ場所同じ時を生きていたのだ。

と、不思議な連帯感でながめる自分がいた。

欧州人たちのように人間に奉仕するために生まれてきたものたち、

とは、このものたちをどうしても考えることができない。

同伴者として見てしまうのだ。

同じ世界に生を受け、そしてどう生きるか考えるのが人間だとして、さて

このものたちが、それを考えていない、と

誰が断言できるだろう。


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機会があれば聞いてみるがいい、

その目が何かを語っているのに

虚心に耳を傾けて。


君自身の秘密が囁かれているかも

知れないではないか。
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by amselchen | 2008-11-27 02:44 | ZD40-150

雪の週末の光景拾遺

今は週末しか撮影の機会がないこと、以前に述べた。よって今回も雪の週末の光景拾遺とする。なんとかたくるしい文体であろうか、しかし今の気候にはぴったり、と自らは悦に入っている。

やはり鬱陶しい光景が冬には多いのだ、例えば

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こんなものである。

見るからに気が滅入るであろう。

このようなものをエントリーするのは実際気がひけるのだが、こちらの実情を知ってほしい、という哀れな願いと思ってどうか免じてほしいものだ。

しかしそれにしてもそのような暗いあくまでも暗い冬の中でも、そこだけほのぼのと明るい風景もあった。

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これなども、わたしの意識の反映なのであろうか?

あるいは、ここに住む冬を嫌悪する人々の観念の形象化なのであろうか?

冬に咲く花である、

名前は知らない。
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by amselchen | 2008-11-26 17:51 | Flektogon 2.4/35

雪の降る寒さにも負けず


Flektogon 2.4/35は、もっぱらK100Dに装着している。MF合焦のストレスが少ないからだ。

コンタックスはあいにくペンタックスとFlange backがおなじなので装着は不可である。

実はM42も同じ45.5mmのFlange backなのだが、アダプターがすっぽりKマウントに入り込んでペンタックスでは使用ができることはご承知のとおり。

このFlektogon 2.4/35、発色が比較的濃厚で好きだ。

ピントリングも固めで(個体差かもしれないが)しっかり合焦点が決まってくれる。

定評のあるペンタックスのファインダー性能の良さにも大いに助けられる。


週末は、雪が降るほど冷え込んだが、このレンズが使いたくて防寒完備で外へ出た。

路傍の石の脇にこんなものを見つけた。


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小さな花が、蔦にからめとられそうになりながら、それをいやがって身をよじり、石に寄添うように雪から避けているようにも見える。

なんという可憐さであろうか。

こんな光景にも、やはり何かの意味を読み取ろうとしている自分がいる。

その花はわたしに向けて何かを表徴しようとしているのはまちがいがない。

がしかし、それはわたしがそういう志向性の視線でその花を見ているからだ。

意味とは、そういう風に、向こうからやってくるように見えて、実は「わたし」(自己意識)から出発して現象世界にリフレックスして自己へと帰ってくるのだろう。

つまり自己意識はそのようにして世界の中でのスタンスを確認しているのだと思われる。それが<意味>というものの実態であろうか。

暗い深海をゆくUボートが、ソナーで障害物や敵の位置を確認し、そして自己の航路を変更して行く、そのようなイメージであろうか。ううむ、ちょっとそれとも違っている。

しかしメタファーはある具体的なイメージに捉われすぎるので、やや危険かもしれない。

ただ誤解を恐れずに云えば、写真撮影と意識の志向性が開示する現象世界の表出にはかなり深い関係がありそうだ、ということなのだ。

つまり撮影対象物をさがし特定する撮影者の行為と、撮影結果についてのことなのであるが。

撮影することによって世界が現前する、と言い換えたほうがわかりやすいだろうか?
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by amselchen | 2008-11-25 00:09 | Flektogon 2.4/35

早すぎる雪


この地方は冬といえば雨か重く垂れ込める黒い雲である。しかし今年は例年とことなり珍しく雪が降った。

そういえば二十年ほど前に大雪があり、二週間ふりつづいて交通が麻痺したこともあった。

しかしやはり雪は珍しい。

しかもまだ十一月というのに。


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土曜日の雪は朝方ふった淡雪だった。

屋根や木々が少しだけ白い粉をまぶしたようになっただけだった。

それでもそれにふさわしく気温が急激に下がり、寒い一日になった。


体がすこしこわばり、精神が内にこもる。


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そのせいか撮影してできあがった画もなんだかすこし厳しい気配を見せている。

やはり撮影者の意識が写真に影響しているのだ。




今は日曜の夕方である。また激しくふりだした。今夜は積もりそうだ。
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by amselchen | 2008-11-24 01:58 | Flektogon 2.4/35

花という表徴


花の写真を撮る、そして大急ぎで図鑑で名前をしらべる。あるいはあらかじめ花の種類や名前が頭に分類されていて、野に咲く花を見てすぐに名前が特定できる。

そういう才能も、また努力への希求もわたしにはない。

ただ、「ああ、きれいな花が咲いている、一枚撮っておこう」。

それだけである。

分類や名前の特定には興味がないのだ。

名前を調べ当てたところで和名だけではしかたがない、かといって、英語名、ドイツ語名、シナ語名、ラテン語名すなわち学名などをすべて記憶するのは不可能である。

わたしには博物学者、植物学者としての特性がまったく欠けているようだ。


ただ、ただ、ある花の姿そのものに関心がある。あるいはせいぜいその咲いていた場所の風と光のぐあい、つまり自然環境に目がゆく程度である。


そしてここからが他の人にはなかなかわかっていただけないことなのだが、


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その花がそこで咲いている意味とは何か>、と考えてしまうことである。

それは何かの表徴であるにちがいない>、とつい思ってしまう。


つまりこういうことだ。

わたしは世界の細分化よりも、細分化されてそこに投げ出されている現象から世界の根源的な姿や意味をつかみたい、という性向があるようなのである。

これはこれで実にこまった事態なのだ。

だから、わたしはわたしの性向をもっと分析してみたい、そして少しは楽なきぶんになりたい、
そういう志向性がこのブログのひとつの柱なのである。

興味のない方はどうか読み飛ばしていただきたい。

これはもちろんわたし個人の問題であろうからだ。
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by amselchen | 2008-11-23 06:22 | ZD40-150

視線の交錯


もう十年近く老眼と乱視に悩まされ、裸眼では読書も遠景を眺望することもままならない。

少年のころよりやや遠視気味でやたら遠景の細部をとらえるのが得意だったがもういけない。

そして近景の細部がこれまたいけない。もうただただ茫洋として大ぼけなのである。

しかしカメラレンズには望遠とマクロというものがあって、裸眼はもちろん、眼鏡ではカバーできないヴァーチャル世界が開けた。

それも撮影をはじめて得た利点であった。


とくにマクロ・レンズを手に入れてから、またLeica Elmarit 60mmという清冽なレンズの力により、不思議な世界に踏み入れることになった。


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もっとこの世界に深くわけいりたいのだが、E-520のファインダーがいかにも使いにくい。三脚でライヴヴューもいつもいつも可能ではない。

これも替えカメラを欲しい理由の、しかも強力なひとつである。これは以前も述べたかもしれない。

目ばかりではなく、記憶もかなりあやしくなっているのだ・・・嗚呼

それにしても、マクロの世界で言えば、花々の微細な深奥も興味深いが、昆虫たちの視線がいい。

こちらをジッとみる者たちの視線とこちらの意識の視線を交錯させるのは、なんというか世界そのものと見詰め合っているのではないか、という厳粛な心持になるからである。
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by amselchen | 2008-11-22 05:07 | Macro-Elmarit-R 60

ZDレンズの夏

夏の休暇では、ちょうど購入したばかりのE-520ダブル・ズーム・キットでずいぶんと愉しませてもらった。

今、冬となりそのころの写真を見ていると半年にもならない過去のことが、ずっと昔のことのように感じられる。

それはいまキット・レンズをほとんど使用することがないからだ。

現在は、Tessarを皮切りにM42マウントのJena製Zeissを主にMF単焦点レンズをアダプター経由で使用している。


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それでもこうして夏の写真を見ていると、そのときはファインダー性能が低いなどの不満は感じていなかった。なんどもくりかえずが、ZDレンズでAF撮影ならばE-520で問題はない。それどころかかなりよい解像度ですっきりとした画が取れる。


AFならファインダーの役目は、構図を決めることと合焦したかどうかを確認するだけだからである。とはいえ合焦をはっきりとは確認はできずグレーゾーンの中で、大体いいかな、というあいまいなところで決定してシャッターを押さねばならない。

それでもおおよそはうまく行くようだ。もちろんピンボケのこともままある。しかし信頼にたるAF精度であると思う。

E-520については、これからはZDレンズを主に使用することにする。

MFアダプター遊びはE-520のテリトリーではないのだ、とけじめをつけたい。

そういう風に割切ればE-520は小型軽量システムとしてはよい選択であった。これが半年弱という短い期間ではあるが使用してみてのE-520に関する中間総括である。
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by amselchen | 2008-11-21 04:12 | ZD40-150

本日もまた雨につき


休み時間にでも撮影しようと、E-520にパンケーキをつけて出勤鞄に放り込んだ。

しかし雨やまず。

また終日忙しく撮影どころではなかった。

不況はどこへ行ったのだ・・・・?


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これも一月ほどまえの夕暮れ、

あのころは退けたあとも撮影ができた。

早く夏時間にもどれ、

といっても詮無いこと。


あちこちで、木の実がもうすぐなくなる、

その後は庭へ餌だしができる、

野鳥がくる、

撮影ができる。

ううむ、待ちどうしい。

まるで子供である。

そんな気持ちになれる自分をほめてやろう。

と日記には書いておこうにも、

日記というもの、十二年来つけていない。
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by amselchen | 2008-11-20 04:51 | ZD25 Pancake