アムゼルくんの世界 Die Welt des Amselchens 

カテゴリ:Tessar 2.8/50( 16 )

里子にだした子が恋しい

文字通り、里子にだしたK100Dが懐かしくて

というのもお蔵入りしていた画がけっこういいもんですから。


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Tessarとの相性もE-520よりもいいような気がします。

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by amselchen | 2009-11-16 22:18 | Tessar 2.8/50

槿の夏

ドイツでは、ムクゲをハイビスカスと呼び習わしている。

きっとハイビスカスを見た人が少なかったのであろう。

それでもこの花がときを盛りと咲き乱れるさまを、

季節が過ぎ去った今は

妙に華やかな気分とともに思い出す。


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胸ふたがれ、うっちゃりようもない冬の毎日を

なんとかやりすごす

そのための手管も

だんだんありふれてきたが

それでもなんとかして生きてゆかねばならぬ


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光あれかし

と祈る気持ちで

夜明けをまつ。


もう12月になった

冬至をすぎさえすれば

少し楽になるのだと

自らをなぐさめる

暗く寒い日曜日であった。
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by amselchen | 2008-12-01 05:27 | Tessar 2.8/50

レンズが思索する


このブログを始めたころは、写真を撮るとはどういう行為か、どんな意識の働きがあるのか、というようなことをめぐってあれこれ彷徨していたのだが、いつのまにか沙汰やみになってしまった。

なにごとも中途半端、わたしの悪癖である。

しかしほんとうに必要なことであれば再開して継続すればいい、そうでなければそのまま消滅してしまえばいい、そうたかをくくっている。

こんなつまらない独言を本気で読む方がおられるとは思いもしないが、誰かが一緒に考えてくれ、そして貴重なアドヴァイスをくださるかもしれないことを信じて、また続けてみようか。

一時帰国から帰って生活のペースがかなり乱れ、また撮影についてもただ漫然、漠然とシャッターを押している自分に気づいた。

だからまあ、気づくだけまし、まだ見込みがあるのかも知れぬ、と自分を慰める。

夏のあのころの気分に帰って再開するために、夏の湖の写真を掲載してみよう。


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by amselchen | 2008-11-15 07:12 | Tessar 2.8/50

少しPlanarから離れて

気分が煮詰まってきているようなので、少しPlanarから距離をおいて見る。

夏に休暇で利用したホテルのレセプションにあった変わった灯りをTessarで撮ったもの。



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それは初めて入手したZeissだった。その時も、それなりにコーフンしていたものだ。

あれはまだ四ヶ月前のことなのに、もうずーっと昔のことのように思えてならない。

もうすぐこの一年が過ぎようとしているが、この年はカメラを中心にあれやこれやと思いをめぐらした一年として終わりそうだ。

去年はまだそんなことは想像もつかなかった・・・

不思議な思いである。
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by amselchen | 2008-11-14 07:05 | Tessar 2.8/50

世界のフシギ


といっても、狭い「世界」の中でしか世界を見ないものの言い草では話にならない。しかし世界のすべてを見通すことはフツーの人間にはできない。

悟りを得たもの、あるいはなから世界のヒミツにアクセスできるものなら別ではあろう。がしかし、そういうものになったところで世界を把握しつくすことは不可能だろうと思う。

世界はどうも意識、あるいは想念がつくりだす現象であるということらしいから、どうしたところで結局はいたちごっこで追いつけるはずはない。

それならば、せいぜいポジテイヴなイメージで世界をつくり上げてしまおうではないか。


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黒い葉の植物があったっていいじゃないか。よせくる黄昏のなかでかすかに微笑まんとするような花がそれにくっついていたってこれまた善し、と受け止めてしまおうではないか。

世界がそのとき少しわかったような気がする。
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by amselchen | 2008-09-29 05:39 | Tessar 2.8/50

生きるという定義


「人間は誰しも生きることを通して、自分の中に「経験」が形成されてゆく。今、経験ということを説明していることはできないが、それは煎じつめれば、人間が過去からうけついだ歴史的なもの、それが、事故の働きと仕事とによって、自分自身のものとして定義されること、そういうものだと思っている」(「思索の源泉としての音楽」より引用。『遥かなノートルダム』所収)



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「経験」はある人の生を定義するものであると同時に、その人のたつ文化的背景と切り離すことができず、また文化的伝統も、一人一人の「経験」(生きることそのもの、と言いかえてもいいかもしれません)を通して定義しなおさなければならない、といっているようです。

これもまた、<個は全体であり、全体は個である>ことを違う視点から言い直しているようにも見えます。
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by amselchen | 2008-08-29 04:42 | Tessar 2.8/50

遥かな森有正


「念のためつけ加えると、僕はここで別に経験論哲学を論じようというのでもなく、また経験というものを学問的、論理的に定義しようというのでもない。そうかといって、経験というものを、俗にいう経験を積んだ人、という場合の意味に解しているのでもない。

このあとの意味では、経験というものは一つの手段の意味に、金を溜めるこつ、という場合のこつを心得る、という意味に近いものとなるが、そういう意味に解しているのでも勿論ない。

僕の言おうとする経験がこの二つの意味にも何かの点で触れることは否定できないが、そういう意味は、さしあたり関心の外にある。僕にとって大切なのは、妙な言い方をすると、経験がどういうものか、ということの経験である。」
(『遥かなノートルダム』所収「霧の朝」から引用)



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かって昭和でいうと45年から55年ころ、つまり西暦では70年代ですが、日本の学生の誰もが、というと誇張でしょうが、少なくとも学生であった私が知る範囲で、よく読まれてていた森有正ですが、今はもう忘れ去られた作家に数えられるでしょう。

そこでこれから、手元にある『森有正全集』を紐解いて、わたしが当時感じいり、そしてわたしの「経験」のために大いにやくだってくれた言葉を少しづつ紹介してゆくことにしましょう。

例によって、また中途半端にとつぜん終了してしまうかもしれませんが、どうか多めに見てください。
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by amselchen | 2008-08-28 04:42 | Tessar 2.8/50

「神」の非在と顕在


どうも、この「考察」は、堂々巡りをしているようで忸怩たるものがありますが、しかし螺旋状に穴が深まることを願うばかりです。

さて、現象世界にあらわれている諸現象は、「存在のゼロポイント」の分節化・細分化であるとともに、その文節・細分化された一片ごとに「存在」のすべてが含まれている、というのが「アジア的」思惟の特徴であるようです。

ヨーロッパ的な形而上学(メタ・フィジック)では、物理的(フィジカル)なものを超越した場所、それがすなわちメタ・フィジカル(物理を超越)ということですが、そこに絶対者あるいは絶対存在が「あり」、その「もの」が物理的世界を創造した、ということになります。

それを「God」「Gott」、あるいはそれに類した語で呼ぶのでしょう。

(イスラムの場合は、ユダヤ・キリスト的なそのような形而上学とイラン・ペルシア善悪二元論、さらには「アジア的」土壌との葛藤が別種の興味深い世界観を表出していますが、わたしには理解不能な部分が多く、のちほど井筒俊彦の著述を紹介してお茶を濁すにとどめようと思います。)

ですから、ヨーロッパ人の場合は、なにごとか不思議な物理学的には説明不能な出来事にあうと、「神」(この漢字は、日本語での、またシナ語での異なる意味があって、「God」の概念とはまったく違っているのですが、ここでは触れません)の存在を感じる、ということになるようです。


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by amselchen | 2008-08-17 18:47 | Tessar 2.8/50

真実は細部に宿る


小説創作の、また読解のさいのテオリーとして、「真実は細部に宿る」という言い方があります。つまり細部がよく描写されていれば、真実味がある、というわけです。

そしてそれは写真撮影をしていても感じることのひとつです。

しばらく休んでしまいましたが、今回は「無」についての考察の続きです。

なんとも名づけようのない「存在そのもの」あるいは「存在のゼロポイント」に、タオイストは、「無」あるいは「道(タオ)」という名をあたえました。

それはあくまで「仮の名」であって、その名によって限定されない「もの」である、という約束をたがえてはなりません。

『般若心経』では、それを「空」と名づけていますが、その「約束」は同様です。

しかし、その「存在のゼロポイント」は、この世界のどこか別のところ、あるいは超越したどこか、に「在る」のではなく、この現象世界の現象のひとつひとつに表出されている、というよりはそれらのひとつひとつが「すべて」「存在そのもの」の細部、すなわち「分節化」であって、つまり即、「存在そのもの」だったのです。

ゆえに、、「真実は細部に宿る」とは、小説作法だけ、あるいは写真撮影だけにいえることではなく、現象世界の出来事のすべてに共通の「真実」なのでした。


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by amselchen | 2008-08-16 05:36 | Tessar 2.8/50

誇り高きGewürztraminer


南チロルには、<Gewürztraminer>という種のワインがあります。<Gewürz>とは、「香料」のことです。<Traminer>とは、<Tramin>産のものであることを示します。

これは、ドイツ語圏では有名な白ワインです。香りがよくまるで香料を含んでいるようだ、ということからそう命名されたものです。


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香り高いGewürztraminer


この種は、いまやドイツ、オーストリアをはじめ、フランス、カリフォルニア、南アフリカなどでも生産されるようになっていますが、オリジンは南チロルのTramin村一帯の<Weinstrasse>(ワイン街道)呼ばれる地域で産するものなのです。

ですから、これもいわゆるイタリアン・ワインですが、その実、ドイツ・ワインの味わいです。南チロルがドイツ語・ドイツ文化圏であるため、当然といえば当然ではあるでしょう。


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これは、子牛のステーキ、ゆえに白ワインをあわせても差し支えない。

つまり、イタリアン・ワインといわれるもののなかにもドイツ文化が潜んでいるのです。これは欧州文化状況の多様性を表徴するひとつの記号といってよいでしょう。
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by amselchen | 2008-08-14 04:17 | Tessar 2.8/50