見るものと見られたもの
いぜん、「志向性」についてかんたんに述べました。
それは、撮影とは「見るものを写す、ということだった。世界を切り取る、といっても同じ。そして見るものを写し取るとは、わたしにとっての世界を定義するにひとしい」ということでした。
しかし、撮影した結果を見て、「どうもちょっとちがう」、と感じることがしばしばあります。
「わたしが見たものはこうではなかった」という違和感、といってもいいでしょう。
それについては、こう考えます。
撮影しているのはわたしだ、しかし実際に世界を写しとっているのはカメラなのだから、と。
つまり、わたしの志向性によって写し取られたはずの世界は、じつはわたしを裏切っている。
カメラの道具としてのニュートラル性の機能を考えればとうぜんのことでしょうか?
しかし、これまた以前に、同じ道具、同じ場所と時間、同じ対象を撮影しても、これまたことなる撮影結果がでる、ということもどこかで述べておいたはずです。しかしこれは、また別の問題を含んでいるので、ここではエポケーしておきましょう。のちほどまたふれることになるでしょうから。
さて、カメラがわたしを裏切る、といってもいつもネガテイヴな方向ではなく、よい結果をうみだしてくれることもあります。
そしてそういう場合はおおむね、<わたしの見たものとはちがった世界が示されていて、目を開かれる、ああ、こんな美しい、あるいはこんな不思議な色と形をそれと知らずにカメラをむけていたのだ>、という驚きなのです。
by amselchen
| 2008-07-20 18:23
| ZD40-150