存在のゼロ・ポイントをボケーッと想う
<存在のゼロ・ポイント>とは、大乗仏教でいうところの<空>とか<真如>とかいうもののことらしいです。
タオイストなら、<道>(タオ)とか<無>というでしょう。
「道可道非常道」(言葉で説明したタオは、すでに真のタオではない)。
『老子』の開巻の一句です。
タオ(または、空、真如、無)は、言葉で限定できない。
言葉で限定したものは、たとえば「タオ」なら、すでに「タオ」以外のものではありえない。
しかし、タオとは一切であって「タオ」以外のものも含んでいるのだ、というわけです。
これを<存在のゼロ・ポイント>と呼んでおくことにしましょう。
それは言葉、すなわち表層意識で理解するものではなく、「無」意識、意識を超越したものによって、実存的に体験するしかない、ということです。
その実践が、「禅」であり、メディテーションなのでしょう。
その実践をしていないわたしには他人事です。
ここに述べることは、いつかその実践はじめなければならない、と個人的に想い続けていて、そしてグル(導師)が現れるのをまちつづけるわたしの、ささやかなウオーミング・アップのようなものなのです。
by amselchen
| 2008-07-18 05:48
| ZD1442