裏切られる視線と客観世界
こんな風に見ていたのではなかった、と撮影した画を見て感じることがままある。
それを視線を裏切るカメラの眼、と名づけておいた。
そしてどうしてそんなことが生起するのかと考察を進めようとして頓挫している。
しかし、今はこう考えている。
<わたし>の視線は、わたし自身の心象風景をもとめる、これは以前にも触れておいたかもしれない。
ゆえに、<わたし>の視線は精確な現象世界を見てはいないのだ。
いわば、<わたし>がそうあってほしい世界を、現象世界の表面から切り取っているだけなのだ。
だから、<わたし>にとって世界とは<わたし>が作り上げるものである、とはこの意味でまったく正しいと確信する。
ただし問題は残る。
なぜカメラはたびたび<わたし>の視線、すなわち<わたし>の世界を裏切るのだろうか?
カメラ(およびレンズ)が客観世界の側にあるからだろうか?
どうもそれだけとは考えにくい。
おなじ撮影機材を用いて同じシーンを撮っても撮影者によって異なる世界が表出するからだ。
カメラ(およびレンズ)は、撮影する<わたし>と密接な関係があり、そしてしかも時に「裏切る」のである。
そうまるで気ままな異性の友のように。
それを視線を裏切るカメラの眼、と名づけておいた。
そしてどうしてそんなことが生起するのかと考察を進めようとして頓挫している。
しかし、今はこう考えている。
<わたし>の視線は、わたし自身の心象風景をもとめる、これは以前にも触れておいたかもしれない。
ゆえに、<わたし>の視線は精確な現象世界を見てはいないのだ。
いわば、<わたし>がそうあってほしい世界を、現象世界の表面から切り取っているだけなのだ。
だから、<わたし>にとって世界とは<わたし>が作り上げるものである、とはこの意味でまったく正しいと確信する。
ただし問題は残る。
なぜカメラはたびたび<わたし>の視線、すなわち<わたし>の世界を裏切るのだろうか?
カメラ(およびレンズ)が客観世界の側にあるからだろうか?
どうもそれだけとは考えにくい。
おなじ撮影機材を用いて同じシーンを撮っても撮影者によって異なる世界が表出するからだ。
カメラ(およびレンズ)は、撮影する<わたし>と密接な関係があり、そしてしかも時に「裏切る」のである。
そうまるで気ままな異性の友のように。
by amselchen
| 2009-01-20 05:41
| Yashica ML 35/2.8